よしぶえ No.21 1999 SPRING

花見月

詩:滝本明 写真:細川和昭

鳥飼上地区付近に咲く一面の菜の花

風わたる水の町を歩いていくと

ぼくを呼ぶ声がする
ふりむくと 目の奥に菜の花が揺れた
古い地図の渡し場で トキの船が浮かんで消えた

あのうしろ姿は 935年のキノツラユキか

1000年の淀の花吹雪のなかを
ブソンが タニザキが サイカクが デ・レーケが
ことばの夕陽を歩いていく

ぼくたちの身の上は ある日の雲に似て 源から遠く…

あ 一行の水に流れる花

(なぜか昼見る夢 人に会いたくて

風光る水の通りを 昨日のあなたが歩いてくる

目次

淀川河川公園ニュース イベント案内 淀川の野草 淀川歴史散歩 淀川河川公園と私

花の名前は文化

花の名前は文化=植物の標準和名・別名(俗名)・地方名(方言名)で示され、学問的には学名が使われる。これは万国共通で取り違えることはないが、和名、別名、地方名は混同することもある。例えば、七草の一つ、ホトケノザ。タンポポに似たコオニタピラコの別名だが、シソの仲間にも同じ和名があり間違えることがある。しかし、地方名は植物の性質を人の生活と絡めて名付けられたものが多く、味わい深くまた楽しい。タンポポをウサギノチチ、イヌタデをアカノマンマ、イタドリをコッポンとかカッポンなどと呼ぶように、まさにひたひたと民族的文化の展開する域だ。
(「淀川の野草」参照。)

島本地区で咲くウツギ(ウノハナ)

淀川河川公園ニュース

第4回 淀川河川公園 凧あげ大会

快晴の2月7日(日)「淀川河川公園凧あげ大会」が太間地区で催されました。当日は最高気温11度と暖かく、午前中は無風に近い状態でしたが午後からは風にも恵まれまずまずの凧あげ日和。朝9時半から受付開始の和凧手作り教室に早くも125名が応募しました。車椅子で凧あげをする家族も参加したコンテスト、凧の会の「龍の連凧」「淀川の凧」のデモフライトなどを楽しみ、合計1000個の和凧プレゼントや賞品に参加者全員大喜び。午後3時まで思う存分熱中した楽しい一日でした。なお同地区では「北河内地区駅伝競争大会」も行われました。

風に恵まれ凧上げを競う人達

第58回 淀川の自然を楽しむ会

2月21日(日)恒例の「淀川の自然を楽しむ会」が伊加賀野草地区で催されました。今回のテーマは”地面の下は?”で、・くず粉作り・セイタカアワダチソウのいま・オギ、ヨシ、ネコジャラシのいま、などの内容でした。北風の吹く寒い一日にもかかわらず午前9時半、子供22名大人71名合計93名もの大勢の熱心な淀川ファンが川辺に集まり、午後3時まで自然観察の一日を過ごしました。数グループに分かれ・くず粉作りでは、クズの根掘りはスコップで、数年経った大きな根は車で引っ張って抜いたりで大騒ぎ。採集した根は淀川で洗い叩いてつぶしたものをバケツでもみ洗いしてくず粉を作りました。地下茎の観察ではルーペを使って春の芽を観察。子供たちはクズ掘り跡の大きな穴を利用して落とし穴作りも楽しんでいました。

掘り出した大きなクズの根

第21回 寝屋川ウィンターフェスティバル

2月21日(日)、寝屋川市の冬の風物詩として定着した『ウインターフェスティバル』が、淀川河川公園太間地区で開催されました。当日は、冬型の気圧配置で最高気温は7度。時折小雪がちらつく中、午前10時から午後3時まで大勢の元気な親子連れでにぎわい、寒さを吹き飛ばす楽しい一日になりました。今年のテーマは”笑顔がいっばい元気に遊ぼう”。会場には竹馬乗り・凧あげ・3人抜き相撲など、趣向を凝らした色々な広場が設けられ、消防の広場では、本物のはしご車に試乗してその高さを実感した子供たちが目を輝かせていました。雪の広場には雪の小山が作られ、みんな雪遊びに夢中。この催しが終われば暖かい春はもうすぐです。堤防沿いの草むらには、季節の到来を告げるツクシが頭をのぞかせていました。

雪の広場は大にぎわい

イベント案内

3月~6月

春季野球大会(海老江地区ほか)

4月1日(木)~10日(土)

桜まつり(背割堤地区)

4月~平成12年3月・通年

淀川テニススクール(豊里地区)

5月16日(日)雨天順延5月23日(日)

第31回守口こどもまつり(八雲地区)

5月22日(土)~23日(日)

春の緑化祭”植木市”(太間地区)

5月28日(金)

水防演習(三島江地区)

5月下旬

第13回ゲートボール大会(仁和寺野草地区)

淀川の野草

葉や茎に細く密生する毛。毛の一本一本に水滴でも付いていようものなら、光り輝くその美しさにきっと誰でも夢中になって見とれてしまう。春の野草は、枯れ野の中に新しく現れた命の輝き。花が咲いていれば最高だが、まだであったとしても、遠く近くの新芽や新葉の艶やかさに注目すれば、不思議と解放感がみなぎってくる。鮮やかに化身した春の野は、和紙にしみこむ絵模様のように精神世界をも満足させてくれるだろう。

ペンペングサの花は、下から上へ順番に咲いていく。だから、てっぺんには蕾がかたまり、途中に白い花、そして下の方には三角形の実ができてくる。「花も実もある草」と言うわけだ。ワスレナグサをうんと小さくした「キュウリグサ」。葉を摘んで嗅ぐと、キュウリを思わせる青臭さが鼻を突く。キュウリモミグサとかママゴトグサなどと呼ばれる地方名はほのかな懐かしさを誘う。これは先の方は蕾ばかり。それがきれいに渦巻きになっているのだ。まだ枯れ草の残る草むらに屈み込んで、草花にうんと近づいてゆっくり眺められるのも、虫や蛇の心配のないこの時期だ。

(新連載の解説は、「淀川の自然を楽しむ会」の指導で親しまれる有馬忠雄先生が執筆。)

カサスゲ

淀川の水辺といえばカサスゲ。最近あまり見かけられなくなった。生育に適した水辺が少なくなったからだ。名の由来は、笠を作るスゲらしい。ミノスゲという地方名がそれを物語っている。今、それは私達の生活用具から遠のき、関心を持たなくなった文化の変貌を感じさせる。

カンサイタンポポ

タンポポのこと。外国からやってきたセイヨウタンポポの分布域調査が行われて以来、関西地方のタンポポとわざわざ断わるようになった。ウサギノチチと呼ぶ地方もある。淀川では堤防の肩等でもともと見られたものだが、河川公園の整備に伴い、淀川全域に広く盛んな生育を見るようになった。

コバンソウ

名前のとおり、小判がいっぱいぶら下がっているように見える外国産の草。黄金色に色づき風に揺れる姿は、何とも愛らしくわずかに音が聞こえてくるようだ。俵麦とか大揺草などの別名は、観賞用に輸入した明治時代の愛好家達の気心を伝えてくれる。淀川ではまだ少ない。

ノアザミ

春から夏にかけて見られるアザミがこれである。他のアザミ類は秋に咲く。花のてっぺんに雄蕊が何本も突きだし、その先をそっと撫でると白い花粉が噴き出すようにでる。虫が花の上を歩くと、体中に花粉が一杯。マユツクリバナとかマユハケなどとも呼ばれ、花の姿をうまく表現している。

ノイバラ

文字どおり、野のバラである。白い花が可愛く、満開時には辺りに香りが漂う。成長が早く、実は淀川の草むらを横切るときの困り者。とげと共に足をしっかり捉えて離さない。秋の赤い実は甘みがあるが、種が多く食べにくい。実を乾燥したものは利尿や便秘の漢方薬として使われる。

ヒメオドリコソウ

淀川では三川合流点・背割堤地区の宇治川に面した草むらにオドリコソウという多年草が群生している。これは、対生した葉の付け根に大型の花を数個付け、まるでステージに舞う踊り子を思わせる。その仲間で、小型のものが姫踊子草。明治年間に外国からやってきた。

淀川歴史散歩―第7回―文禄堤とその周辺

記:滝本明

文禄堤と京街道[A]

京阪電車守口市駅を淀川の方向に歩くと、すぐ立体交差に出会います。上の橋は本町橋でそこを通っている道が「文禄堤(別名慶長堤)」です。天下統一を果たした豊臣秀吉が文禄三年(1594)諸大名に命じて作らせたもの。本能寺の変(1582)からわずか1年で22カ国を平定した秀吉は、翌、天正十一年(1583)に大坂城を築城して居を構え、同十六年に淀城、次いで文禄三年に伏見城を築くと、淀川左岸を修築させ堤の上の道路を整備させました。大坂-伏見間を最短距離で結ぶこの堤防道の当時の長さは27km。着工は、伏見城郭の普請と並行して文禄三年から前田家・徳川家によって行われ、続いて慶長元年(1596)毛利一族が加わり同年冬に完成しました。文禄堤は後の江戸時代に、旅人でにぎわう「京街道」として発展しました。

古い町並みが残る文禄堤

守口宿[B]

京阪守口市駅や文禄堤周辺が江戸時代に栄えた「守口宿」で、淀川方向の下町は、今でも格子戸のある軒の低い町並みが往時を感じさせます。慶長五年(1600)関ヶ原の戦いに大勝した徳川家康は、翌六年正月、公用の人馬の継ぎ立てを円滑にするため東海道の巡視を命じ、伝馬を出す宿駅を定めました。東海道は江戸-京都間の121里(472km)。品川-大津までの五十三次の宿駅は広重の版画で知られています。しかし実際は京都-大坂間を結ぶ文禄堤の「京街道」もその延長とみなされ、伏見・淀・枚方・守口も加え幕府の公称では品川宿から守口宿までの五十七の宿駅でした。竜田通りには今も「東海道守口 右大坂左京」の道標が残っています。守口宿は南北平均約10町(1.09km)東西平均約1町(109m)の淀川沿いの細長い町。「東海道宿村大概帳」には旅籠屋は27軒とあり、江戸時代を通じ家数・人数はほぼ200軒・800人前後でした。

八雲遺跡[C]

「八雲遺跡」は、淀川中流が大きく湾曲する河川公園・八雲野草地区河岸付近のこと。昭和46年(1971)、建設省が淀川左岸を改修工事中、八雲北町一丁目付近の河川敷から弥生式土器や土師器・須恵器など多くの遺物を出土し、遺跡として知られるようになりました。著名な出土品に「滋賀里深鉢土器」があり、当初は縄文晩期の集落跡の遺物と考えられていました。次いで近世の徳利などが出土し、今は同じ場所に時代や地層の異なった遺跡がある「複合遺跡」と推定されています。同遺跡の他、弥生時代の4つの遺跡がある守口市域は淀川がもたらした堆積地で、縄文時代前期(6~7千年前)には海面下にありました。その後干潟を形成、水稲耕作の弥生時代を経て、堤を切る戦乱や自然の水害を被った中近世の歴史があります。時代を超えた出土品からは、水没しては再建されたこの地の集落の、大昔からの歴史ドラマが想像できます。

遺跡が見つかった八雲野草地区

淀川河川公園と私

移りゆく淀川で、子供達の遊びと夢を育てる

私は、淀川左岸の寝屋川市仁和寺で生まれ育ち、10歳の時仁和寺を離れますが、25歳で結婚と同時に仁和寺に戻ってきました。淀川河川公園というより淀川との長い長いつきあいです。遠い記憶の中では、仁和寺野草地区はゴルフ場であり、他は葦が生い茂り現在の河川公園とはほど遠いものです。また、佐太には渡しがあり、時には対岸まで足を伸ばし遊びに行ったものでした。小学校の高学年から中学時代にかけては太公望を気取り、時に釣った魚が夕食の一つとして食卓を飾ったものでした。造られた河川公園ではなく本当の河川公園だったと思います。

高校・大学時代は硬式野球部でランニングに明け暮れる毎日で、辛い思い出も詰まっています。卒業後、寝屋川市の軟式野球連盟(社会人野球)に加盟したことで学生時代とは違ったつきあいが始まることになりました。その頃は、だだっ広い原っぱでグランドと呼べるものではなく、春になると石ころ拾いや土の搬入、台風シーズンには大雨で河川敷が水没することもあり、その都度、整備は大変でした。現在の河川公園に点在する球場は野球人にとっても、また寝屋川市にとっても恵まれた施設だと思います。

30歳前後になるとメンバーも仕事で忙しく、またそれぞれの子供が小学校へ上がる年齢となり、家庭サービスのためにも集まることが困難となりました。チームは自然に消滅してしまいましたが、河川敷は野球場でなく、子供と遊ぶ場所へと移り変わりました。

その後、中学2年生の長男(現在ボーイズリーグ全枚方所属)が友達に誘われて小学2年の秋、学校の学童野球チームに入部。以前から私は「少年野球の指導を」と夢見ていましたから、その日から土・日・祝日はつきっきりでした。小学3年になったときチームの指導者の一人となり、再び河川公園を利用することになりました。「野球の指導」といっても技術云々ではなく、泥まみれになって子供達と遊ぶことが野球でした。春は花粉症と闘い、夏はギラギラ照りつける太陽の下逃げ込む陰もなく、秋には低学年は外野でバッタ捕り。過ごしやすい季節は短く、雪が公園を白く覆う日もありました。その時は野球どころではなくなり、指導者全てが少年時代に戻り子供達と熱い雪合戦。1年を通して正月しか休みもなくプロ以上の練習量でした。指導者として子供達が毎週楽しめることが課題でした。子供達の野球に対する情熱とは裏腹に、土・日・祝日のグランド確保はとても大変で、月一回行われる野球場使用の抽選日には父母の協力を仰ぎ、朝早くから淀川河川公園を管理するサービスセンターへ出向いていただいたものです。

また指導者として各大会や行事に参加することで学生時代の同級生や先輩後輩達とも逢う機会ができ、親交を深めまた試合結果に一喜一憂できるのは、ひとえに子供達のお陰だと感謝しております。

この春、河川敷で育った子供達が学童野球から少年野球へ、そして少年野球から甲子園を目指す高校球児へと大きく出発、悔いなく活躍することを期待しています。

木戸 伸二

学童野球チーム恒例のもちつき大会での筆者と同長男

ナンバー7

木戸 伸二(きど しんじ)
昭和31年2月25日生まれ。小学4年で野球の魅力に取り付かれる。
学童野球のマネージャー、コーチ、監督を経て、現在長男と共にボーイズリーグでマネージャー、審判員として活動中。

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